石洲口の戦い跡を散策

KeiichiKoyanagi2007-01-20

1864年大村益次郎率いる長州軍約1500名が山口を出て、山陰街道を北に進めて、津和野藩をなんなく通り、浜田藩の国境にある扇原関を通過した話が詳細に司馬遼太郎の“花神”に描かれている。

慶応2年(1866年)6月16日の朝(確か10時頃と言われている)、扇原関門に至る。浜田藩の岸静江国治は、大村益次郎等の通過を許さず、僅かな部下と急募の農民と共に守りにつき、戦闘が開始された。第二次長州戦争の口火になった。この話が“花神”に詳しい。

圧倒的多数の大村益次郎等を前に、岸静江はまず部下と農民を退去せしめ、一人関門を死守し、敵弾を受けて仁王立ちのまま絶命したとの話が鮮明に僕の頭に描かれています。その地に行きたく、今回、その場所に立ちました。

関門を通過した次の日、医光寺、勝達寺、万福寺に布陣していた幕府軍浜田藩、福山藩)を敗走させている。


扇原関門跡


医光寺