延岡界隈、西南戦争史跡
宮崎県の延岡市に流れる北川を北に少し上った辺りに和田越戦争之地と西郷らが宿陣跡があります。
以前からこの地を訪れたいと思っていました。この地域が西南戦争に関わる史跡を大切に保存しているのには驚きました。
先日、鹿児島県根占にある西郷さんの宿跡にも行きましたが、悲しいほどその宿の保存状態が悪く、崩れるのも時間の問題かと思われます。
延岡の宿陣跡は、屋根こそ藁ぶきがトタンに変わっていましたが、建物は基本的に昔のまま保存され、説明員の方に親切に案内されたのは嬉しかったです。
和田越戦争之地:この地で初めて西郷さんは戦地に出ました。流れ弾に当たり死ぬつもりであったと伝えられています。山の向い正面には官軍山縣有朋の陣地がありました。
和田越戦争之地から10キロほど北川に沿って上った処に宿陣の跡があります。和田越戦争で負けた西郷軍は、この地へ移動し二泊した後、闇にまぎれて可愛岳を登り脱出をします。
西郷さんが自分の軍服を焼いた場所です。つまりこれまでの戦いなどでは、西郷さんは常に官軍の大将としての制服を着ていた、ということです。自分が闘っている相手の大将でもある、という認識でいた、と司馬遼太郎さんは書いていますね。なお、帽子だけは焼かずに、日よけに被っていた、とも言われています。
西郷さんが持ち歩いていた硯です。解散書もこの硯を使って書かれたと言われています。
西郷さんの息子さんである菊次郎が、和田越戦争で負傷したためにこの家で治療していたそうです。可愛岳からの脱走には、ついてくるな、西郷従道が悪い様には扱わないであろう、との説得で菊次郎はこの地に残ったとのことです。その菊次郎さんの息子さんが後に、この地を訪れた際の写真が展示されていました。それにしてもお孫さんもよく太っていましたね。
桐野利秋の陣宿跡
桐野利秋の陣宿跡のすぐ横に、西郷らが可愛岳に登った逃走の道がありました。
この逃走の道は、昔のままそこにあるような小道でした。この道を登り始めて2週間後に鹿児島の城山にたどり着いています。いつか、このルートを歩きたいと思っています。話によると、一人の日本人とアメリカ人一人が、このルートを歩いているそうです。