高取城散歩

KeiichiKoyanagi2008-08-02

以前から訪れたいと思っていましたが、結構不便な場所にあるのでその機会に恵まれませんでしたが、今回、泉大津から自宅までのドライブの途中よりました。

泉大津から堺へ出て、そこから葛城さんを越えて五条へ。五条から高取山の頂上にある高取城までの散策を楽しみました。

土佐出身の吉村寅太郎十津川村若い人たちなどからなる天誅組高取城に立ち籠る高取藩とが戦ったところです。この戦で吉村寅太郎は負傷しています。

堺、高取城、五条あたりが戦いが展開された場所になります。
  
この高取城は結構な山頂にあります。車でもきつい昇りになります。途中、車を下りて、山頂にある城まで登るのに汗をかきました。

以下は、『ウィキペディアWikipedia)』からの抜粋です。

天誅組は堺から河内国に入り、狭山藩に銃器武具を献上させると大和国へ進み、8月17日に五条代官所を襲撃して代官鈴木源内の首を斬り、討幕の兵を挙げた。

三条実美天誅組の過激な行動を危惧し自重を促そうと平野国臣を遣わしたが、天誅組の挙兵の直後に八月十八日の政変が起こり政局は一変し、三条ら尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。

五条に到着したばかりの平野は善後策を講ずるために急ぎ帰京。挙兵の目的だった大和行幸もなくなり、天誅組はまったく孤立してしまった。幕府の討伐軍に対抗するために吉村らは十津川郷士を募兵して1000人の兵をかき集めた。天誅組は兵糧の差出を拒絶した高取藩に激怒、26日に高取城を攻撃するが、人数は多くても烏合の衆に過ぎず、少数の高取藩兵の砲銃撃を受けるとたちまち敗走してしまった。敗戦に憤った吉村は24人(または13人)の決死隊を編成して夜襲を図った。決死隊は城に放火すべく乾草を背に松明を持って夜中間道を進むが、高取藩の斥候と遭遇。吉村は敵に斬りかかるが下腹部(または内股)に味方の誤射を受けて重傷を負い、決死隊はなすところなく撤退した。