三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

8月21日に三内丸山遺跡を訪れました。今回が三度目です。

楽しい事と悲しい事がありました。

楽しいことは、3度目にして始めてボランティアの説明員の方のお話をじっくりと伺うことができたことです。前2回は他の方と一緒だったので急いで回ったために説明のお話を聞くことができませんでした。

その説明の中で興味を持ったことが2点ありました。

1点目:建物の分析からこの地域の縄文の方々の長さの基本単位が35CMであった、と言う話です。北海道などの北方地域で発見された建物はみな共通に35CMであった、という事実です。

吉野ヶ里や今のアイヌの人達、さらには韓国の古代などが気になりました。大和からは尺ですから33CMですから、その違いはどこから出てきたかなどの疑問が沸きました。この辺の見解は現在どのようになっているのでしょうかね? ちょっと調べたくなりました。

2点目:それは4500年前の縄文時代、つまり三内丸山遺跡の人々が新潟県糸魚川の人々との交易があった事はヒスイが証明するように有名な話ですが、その交易で用いられていた航海技術の話を今回なるほどと思いました。糸魚川から三内丸山までは海流に乗ってくれば2週間もあれば運ばれてきますが、帰りの航法は、どうするのか、というのが疑問でした。今回、この疑問が晴れました。また、船乗りであれば当たり前の話なんですね。本流と支流の2つがある。海流である本流が岬に当たると逆方向の流れ、つまり支流ができる。帰りは、その支流を利用して糸魚川に戻るんですね。

この話は実に面白かったです。

悲しい事は、来るたびにがっかりすることです。

1997年7月に初めて訪れた時は、広大な原野に遺跡がありました。その風景に感動したことを昨日のように覚えています。

その後、どんどん風景が変わってしまいました。1つは、遺跡の風景のど真ん中に工場が見えることです。2つ目は、箱物行政そのものですね。青森市は、巨大な異物を遺跡の前に建てました。そればかりではなく、その隣に美術館まで建てたのです。他の場所から青森を訪れる人は、その美術館に飾られたシャガールを見に来るためにくるとでも思っているようです。私には信じられませんね。

もう、あの広大な原野は失われてしまいました。あの原野こそ三内丸山遺跡に相応しい風景だと今でも思っています。 その点、吉野ヶ里遺跡はどんどんよくなっていっています。初めて吉野ヶ里遺跡に行った時は、やや失望したのですが、その後何度か行きましたが、行く度に佐賀県が本気で取り組んでいることに感心しています。青森市とは違いますね。