福沢諭吉「学者飼い殺しの説」
久しぶりにこの文章に出会いました。
私自身、NTT研究所に26年勤め、そして現在、大学院の教員をしていますが、その前者の時代から、企業が研究所を持てるのは、「例え話で、江戸時代豪商の数寄者がちょっとした趣味でスポンサーになるような気持ちがなくては無理」、とよく言ってました。そんな気持ちを今でも持っていますが、久しぶりに読んだ以下の文章には改めて納得してしまいます。
以下、『考証福沢諭吉(下)』(富田正文著、岩波書店) なお、雑誌NEWTON,2006年12月号, pp100-pp.105からの孫引きです。
『自分が若いときから夢想して、今日に至るもなお実現することが出来ない人生の楽しみを語ろう。ここにひとつの研究所を設けて、5名ないし10名ぐらいの学者を集め、これに生涯安心の生計費を与え、研究のテーマの方法も本人の思うままに任せて、一切干渉せず、その研究の結果が人を利するか利せざるかをも問わず、むしろ実際の利益に遠いものを選んでその理を極め、その研究が目的に達しなくても構わない。研究費が無駄になっても構わない。一生涯かかって成就したくて半途で第2世に引き継ぐようなことでもよろしい。時には病気で休むのもよいし、健康も気が進まなければ中途で休んでも差し支えない。怠けるも勉強するも当人の好き勝手にして、いわば学者を飼い殺しにすることである』。
『・・・右のようにするのが最善の方法で、生半可の規則だの取り締まりこそ却って研究や思索を妨げるものでる。こうでもすれば、日本の学者も始めてその本領を発揮して、世界の学問に新生面を開くことができるであろう』。
現在、こんな気持ちで研究所を運営しているところがありますかね。ちょっと心細いですね。特に最近はどんどんなくなっているのではないでしょうか、それが心配です。