十津川街道
司馬遼太郎全集〈55〉街道をゆく(4)
文藝春秋 1999年2月
司馬さんは、昭和52年に十津川街道を吉野から南下しています。僕は、2007年の12月末、十津川街道を司馬さんとは逆に熊野本宮大社から北に向かいました。昔から一度は走ってみたいと思っていた街道を訪れることができました。そして2008年8月に堺から310号線から五条市へ抜けて、さらに高取城を登りました。司馬さんが書いている天誅組が歩き、そして戦ったコースになります。
十津川街道の200キロほどの厳しい山間道は、まさに雲煙のかなたにある十津川村、天空の村を実感した旅でもありました。熊野本宮大社から十津川村はそれでも比較的整備された道が続きますが、十津川村から吉野への150キロほどの道は、人馬不通の所を彷彿させるものがありました。盛んに道を整備しているために多くのトラックが南下するなか、何度となく冷や汗をかくこともある数時間の山間ドライブは忘れる事のできない思い出にもなりました。司馬さんがタクシーで走った閑散とした道とはだいぶ異なっていました。
厳しい山襞に点在する人々が昔から狭い田畑を構築し共同体を築きながら兵の貯蔵地として存在し続けた背景を実感したくひたすら走り続けた記憶だけがあります。この大山鬼を越えて都に出て、その僻地を時の権力者に安堵してもらうために若い人々が何の恩賞も期待することもなく戦地に出向いた気持ちを感じたく走った思いでした。司馬さんは、十津川村の人達の’安堵’するための行動について、律令制時代、そして鎌倉時代、その後の戦国時代、そして秀吉の検地における’安堵’の歴史的流れのなかで話を展開しています。
そんな中、十津川村の村湯でその日の最初の客として迎えてくれた村湯の管理夫人(80歳くらいか)、源泉かけ流しで貯まったお湯に一生懸命ホースを伸ばし水道水を注いで冷やしてくれた姿が、張りのある動きと艶のある笑顔が印象的でもありました。
村湯にあった十津川村憲章