阿波紀行

KeiichiKoyanagi2009-05-05

司馬遼太郎全集〈第62巻〉街道をゆく(11)
文藝春秋 1999年9月
にあります。

久しぶりに読みました。

何度か訪れた場所でもあります。好きなドライブコースでもあります。

http://www.koyanagi-lab.org/koyanagi/pleasure/trip/index.html を再掲しながら以下に書きました。


鳴門の温泉から鳴門海峡を見下ろした風景


脇町で見かけた司馬さん



祖谷のかずら橋

●2005年8月記
一泊目を足摺岬で過ごした今回の旅の二泊目は、鳴門でした。朝の9時半に小さな観覧船にのり渦潮を観る。高校時代の修学旅行以来の鳴門訪問です。その頃は、岡崎海岸にある”鳴門ホテル”に泊まりました。今はすでにそのホテルはありません。岡崎海岸は、四国側にあります。鳴門大橋が無かった頃は、そこが淡路島との間の連絡船停泊場所でした。昔からの船着場です。江戸時代、本土への旅人は、この岡崎海岸で船が出るのを待ちました。天候しだいでは数日待ったようです。私が修学旅行で行った約40年弱前も同じようにそこが船着場でした。司馬遼太郎の”竜馬がゆく”では、竜馬が初めて江戸に旅する話が出ていますが、この岡崎海岸の旅館での出来事、つまり旅で一緒になった家老の妹との話が描かれていることを思い出しました。鳴門大橋ができたお陰で、その岡崎海岸の面影はまったくないようです。橋が飛び越えてしまったわけですね。5千円ほどで神戸や大阪へ行き買い物し帰ってこれる。そのため、若い人たちの買い物は神戸や大阪へ、という具合に変わってきたようです。昔の藩=県が、人の歩く速度をベースにした流通などには程よい大きさかもしれませんが、今後、ますます、不都合が生まれてくる、という思いが、地元の方とのお話で再確認させられました。九州も高速道路に慣れた若い人が中心になるにしたがい、経済をベースに捉えると、藩=県の大きさは厄介なものになってきたなと思いますね。鹿児島や熊本からちょっとドライブすれば博多ですからね。買い物は博多へ、そしてお金が九州では博多に集まる。情報も博多に集まる、ということになる、ということですね。さらにもっと言うと、すべてが東京に集まる、ということになりますね。これからは地方分権が重要だと思いますが、その地方が、藩=県のベースでいいかは重要なテーマだと思います。

この旅で偶然訪れた大塚美術館は素晴らしかった。時間を作って再度訪れたいと思います。

(注記)司馬さんの竜馬がゆくでは、岡崎海岸から船で本土に渡ったことなっていますが、実際は、そのようなコースをとるのは普通ありません。小歩危大歩危は危険がルートでそのころはまともな道がありませんので、土佐からは多度津へ出て、多度津から本土に渡るのが一般的でした。多度津と金毘羅間、そして金毘羅と土佐間はよく使われた道です。当時の島村某の日記にそのように記してあったのを後に見つけました(笑)。

●2006年7月
http://mixi.jp/view_album.pl?page=3&mode=photo&id=565755&owner_id=123069

いつもは、司馬遼太郎の作品だけを手に散策をするのですが、今回は、学生時代からの友人T氏の案内の下、阿波紀行を楽しめたのは幸せでした。T氏は丸亀に単身赴任で来ていますが、高松が地元なので大変詳しく、私が今回行きたい場所をすでに熟知していたので大変助かりました。丸亀から、まずは屋島へ。司馬遼太郎の阿波紀行は鳴門から始まりますが、40年前に行った屋島が懐かしく、今回、訪れました。生憎、霧で瀬戸内海は全く見えませんでしたが、懐かしさがこみ上げてきたのを覚えています。また、作品『義経』の屋島での風景を断片的に思い出しながらの散策を楽しみました。

屋島から、鳴門へ。鳴門スカイラインから眺める鳴門の内海が美しい。かつて、ここに居たある漁師が最初のテグスを考案したことを司馬遼太郎は書いています。そのテグスの技術が、ここ鳴門内海から全国へ広がったと思うと、その美しい風景がまた輝いて見えました。

鳴門から、潮明寺を経由して徳島市、そして吉野川へ。途中、T氏の案内で、徳島ラーメン自慢の王王軒で肉入りラーメンを食べました。吉野川は広大な気持ちのいい風景を作っていました。南北の山々を縫って走るその川が豊富な大地をもたらし、そして藍の産地を作り上げたことを考えると面白くもあります。そして、その藍の商人が作った脇町が、また、いい雰囲気を今に伝えているのは嬉しかったですね。倉敷や柳川のような観光用に作りこんだ雰囲気がまだ少ないだけに、私は心の安らぎを覚えた気がします。

脇町からさらに吉野川を上り、小歩危大歩危へ。私が、この地名を知ったのは、『竜馬がゆく』の作品が最初でした。竜馬が、江戸への旅、この道を歩く姿を司馬遼太郎が面白い表現で書いているのを覚えています。竜馬の人生観、今、思うと、それは司馬遼太郎の人生観が簡単に述べられているんですね。同じ文章が、司馬遼太郎の若いころの自分自身を述べた随筆にも出ているのを後年、僕は出会ったことがあります。

大歩危から祖谷渓谷のかずら橋へ。司馬遼太郎と須田画伯はこの橋を渡って阿波紀行を終えています。T氏と私も渡った後、祖谷温泉で旅の疲れを流した後、丸亀に帰りました。

T氏のお陰でとてもいい風景を見ることができました。

●2007年3月
今回は女房殿を助手席に乗せて、再度、吉野川を下り、脇町で遊び、祖谷のかずら橋を渡り、祖谷温泉に泊まりました。いい夕飯でした。