肥前の諸街道

KeiichiKoyanagi2008-08-21

司馬遼太郎全集第55巻
街道をゆく(4) 文藝春秋
1999年2月
に記載されています。

司馬さんは、1977年に本作品の執筆のために二度ほど訪れています。この肥前の諸街道は、福岡から長崎までの長い旅なので二度に分けたようです。僕は、2003年4月から北九州に住むようになってからたびたびこの諸街道のドライブを楽しんでいます。司馬さんは、二度目の訪問では、福岡空港で降りた後、南蛮文化の関わりに思いをはせながら玄界灘沿いに唐津へ向かいました。途中、元寇である蒙古襲来に思いをはせ、唐津の虹の松原を観ながら、さらに豊臣秀吉朝鮮出兵の基地になった呼子港名護屋城跡を訪ねています。また唐津街道を西に伊万里を通って、平戸口から平戸に入り平戸の散策を楽しんでいます。佐世保で宿をとった後、横瀬浦を訪れています。長崎界隈では、福田港、長崎を散策しながらポルトガル、スペイン、オランダ、英国との関わりを考えながら旅をしています。いい作品です。

福岡から唐津への途中、玄海灘沿いに走ると、蒙古塚の大きな看板が左手に見えます。その先には何台かの車を停めることができる駐車場もあります。司馬さんの来られた1977年当時はそのような標識はなかったようですね。僕は、何度か通りましたが、まだ、その駐車場に車を停めて蒙古塚の散策をしたことがありません。今度、寄ってみることにします。


唐津城から眺める虹の松原


呼子


名護屋城跡(呼子が遠望できます)


平戸城


平戸オランダ塀


オランダ井戸


横瀬


長崎


長崎:この病院でボランティアとして働いていた日本人が戦国時代に居たことに司馬さんは言及しています。また、300年後のこの場所に勝海舟、松本良順、そして司馬凌海(伊之助)が住んでいたことを思うと感動さえ覚えます。司馬さんの“胡蝶の夢”を思い出します。