横浜散歩

KeiichiKoyanagi2008-12-01

久しぶりに”横浜散歩”を読みました。 司馬遼太郎全集〈57〉街道をゆく(6)にあります。

司馬さんは、神戸散歩の後に横浜を散策しています。

横浜は、私が生まれ育った場所から近く、幼いころからの思い場所でもあります。2000年8月に、そんな横浜を司馬さんの著書を片手に歩きました。

司馬さんの散策と同じように、吉田橋を渡り関内に入りました。馬車道を歩きながら看板を見ました。福沢先生が英語で書かれた看板を見て、大きなショックを抱いた気分を、この界隈で感じることはできませんが、僕にとっては懐かしい場所でもあり楽しく歩くことができました。

半日もない時間を利用しての散歩でした。この広い横浜をつぶさに見るわけにはいきませんでしたが、司馬さんが、綴った横浜散歩の雰囲気を私なりに味わうことができました。浦賀沖のペリー艦隊、久里浜海岸の上陸、そして日米親和条約を交わしたこの横浜海岸の上陸、どれもいろいろな形で、当時描かれた絵を通して私たちはそのころの状況を想像することができます。横浜上陸の絵に描かれている楠木の子孫が、同じ場所に立つ姿を見たとき、当時の面影などまったく残さない山下公園界隈が確かにその場所であったことを教えてくれるような思いがしました。

その楠木の近くにある一番館の碑を確認し、そこから広がり続く外国人居留地を思い浮かべながら、石川町へと歩いていきました。90番館跡、そしてその筋向かいに在った91番館跡がどの辺であったかを確認したいとの思いで真夏の昼間に歩きました。

目的は91番館なのですが、その手がかりは、横浜散歩で書かれている司馬さんの文章だけが頼りでした。つまり、加賀町警察署の近くにあるビル。そのビルの玄関には、90番館から出土した幕末時代の大砲が設置してあるとのこと。そこが、90番館の跡地に建つビルだということです。何人かの人に道を尋ねながら、もちろん、加賀町にある警察署の方にもうかがいながら、その大砲に出会うことができました。

路地脇に3台の大砲がおいてありました。薩摩の大山も、鳥羽伏見の戦いの前に、この90番館に住むスイス人からこのような大砲を購入したのではないかと思いながら錆びた大砲の筒を撫でて見ました。横浜散歩で、司馬さんは、晩に、この場所に着いたのであまり見えずに手で撫でて感触を味わいましたが、私は、暑い太陽の下で、手についた汗をひやりとした筒でぬぐっていました。この90番館の筋向いが、私が知りたい91番館なのですが、どちらの方向が老番の方向であるかは分かりません。その街角の雰囲気を思い浮かべ、そこに歩く河井継之助の姿を想像しながら、近くに在る中華街でお土産のお菓子を買って帰りました。