夏目漱石の作品『心』

今、司馬遼太郎全集の第64巻目を読んでいます。司馬さんの全集を読み始める前は、漱石全集を読んでいたので、この作品『心』を読むのは久しぶりです。

しかし、この作品、Mixiのプロフィールに、“『心』 人の心のあやと、人と人とのつながりのあやうさの描写のうまさ。いまだに、物語の風景が心に浮かびます。そんな作品を今だ他にしりません。”、と書いたように、僕は大変好きな作品です。何度となく繰り返して読んでいる作品の一つです。

今回は、青空文庫からダウンロードして読みました。御蔭で、重たい全集を本棚から取り出さなくても、いつでもどこでも気楽に読むことができました。

先日、太宰治の斜陽、人間失格、そして芥川龍之介或阿呆の一生や歯車を読んでいて、この夏目漱石の作品、『心』をまた読みたくなりました。

太宰治の“斜陽”にある弟の手記や芥川龍之介の『歯車』などは、作品として作者が持つある計算された戦略の元に書かれていますが、これが明らかに夏目漱石の作品、『心』を相当意識して書いていると僕には思えるのです。

そして、作品の構成の巧みさ、人の心のつながりとあやの表現に置いて、芥川のの作品も太宰の作品も『心』の作品に到底及ばないと僕などは思っていしまいます。

そして、芥川も太宰もともに自殺し、机上で練られた作品『心』を超えたものとして、何かを書こうとした形跡を感じたりします。

その結果として、芥川の『或阿呆の一生』書かれているる、『心』の先生の手記の代わりに、『或阿呆の一生』の中に芥川自身の心を芥川は描こうとしている。その結果、とりとめもない文章の構成法となり、そこには理論もなければ何もないような作品として『或阿呆の一生』が描かれているように思えるのです。

例えば、夏目漱石の『心』が、モネの計算された美しい抽象画の代表作としての睡蓮であるとすれば、芥川龍之介の『或阿呆の一生』は、ゴッホのカラスと麦畑、のように魂だけが描かれた作品であるように思えるのです。そこには、計算された美しさも何もありませんが、強く、人を引き付ける力があります。

それにしても、作品『心』は、傑作であると僕は思います。また、いつか読みたくなった時に読みたいと思います。